雑務に追われる日々を淡々と過ごしています。
夏の終わりを惜しむように蝉の声が大きく聞こえます。
蝉は一生のほとんどを大地の中で過ごし、やっと地上にでて僅か一週間で命が終ります。
僅か......と思うのは人間だけで、蝉自身は地上にでてから、空を飛んだり、思い切り羽を鳴らしたり、愛を実らせたりと、物凄く素晴らしい体験をしながら、一週間も過ごすことが出来て本当は大満足なのかもしれません。
物事や、全ての思考には多角の見方が有り、一方向だけの見方では誤っている可能性も有ります。
人は大人になるにつれ、このような事が解かり始めます。
しかし、昭和の時代に子供だった方々に比べ、現代の子供達は明らかに幼いように思います。
もちろんしっかりとなさっている方もおりますが、大人の感覚を身に着けるまで時間が必要です。
世間で言う「ゆとり教育」の残影とも言われますが、確かに様々な教育が公の場所で行われて来ていないのが事実です。
たとえば、生きるという一番大切で必要とされることを真正面から子供達に教えてきているでしょうか.........
自分が今まで生まれてきて、現在に至るまでの過程や、これから自分が生きていく方法や生きる為の心の持ち方等、どの時点で教えているのでしょうか、
殺伐とした経済環境の現在、各家庭で生活する為の収入を確保することに真剣に取り組んでいる親御さんに、自身の子供達にむけて「自分で生きる為の教育」が果たして出来るでしょうか、
様々な制約の中で日々暮らしていく現在、心にゆとりを持って常に笑顔で過ごす事は難しいのが事実です。
それでは、生きるということを学ばないで過ごしてしまう子供達はどうなっていくのでしょうか、
自分自身が、その時点までに出会った経験や体験により「大人の感覚」を見に着け、生きることを経験・体験から学んでいくのです。経験や体験が少ないと「子供の感覚」のまま年齢だけが大人になるのです。
年齢だけが大人になってしまった集団が、人生を生き抜くには相当の覚悟・努力が必要です。
まず、世の中に順応、適応ができないのです。学んでいないので障害にぶつかるとどのように対応するのかが解からず逃げてしまいます。逃げれる家が有る子供は家に戻り、そのまま挑戦することに恐怖を感じ、再挑戦まで長期間掛かります。このような状況から引きこもりは始まります。
親御さんは子供をどのように支えれば良いのか解からず、腫れ物を触るように見守るだけです。
そんな時、普通の家庭では多々有るのですが、父親が声を荒げて怒っても、子供の心には届きません。
逆にその事により子供の心はシャットダウンして締めてしまいます。そして、一度締めてしまった心はなかなか開くことは難しいのです。
現在、生きるということを子供に教えるのは国家を挙げて取り組むことが先決だと感じています。
長文になるので、続きは後日ということにします。